昭和五十七年四月二十五日 朝の御理解


御理解第六十八節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。


 昨日北野の秋山さんの長男光幸さんです、お礼に出て参りました。というのは二、三日前にあるお仕事の事をお願いしてあった。それが次々とおかげを頂いて、これは光幸さんの言葉ですけれども、神様のお働きと思わずにおられん、おかげを頂きまして今日はお礼参拝をしてきたというのです。ですから此のお取次を頂いておかげを頂くということだけでなくて、今日の御理解を頂いておりますと、まずは徳を受けるということをここでは説かれてあると思うですね。
 神参りをするのに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとあるね。身に徳を受ける修行をまずはさせて頂いて、願うところ、頼むところ、そこに神様の働きがはっきり現れてくるようなおかげを頂かなければんらんと、言うことが今日の御理解のま、芯のように思うんです。
 六十八節。私はそれを感じましたね。六と言えば、ここでは徳と言われる、お徳を受けて言うならば、広がりに広がるおかげね。ただお取次を頂いて、その気になってお願いをすればやっぱおかげは受けるんですね。
 けれどもそういうおかげだけでなくてですね、いわゆる広がりに広がっていくおかげです。それはまず徳を受けなければならない。その徳を受けるというのは、なら様々な信心生活の中に、あ、これが雨であろうか、と思うような事もありますけれども、又、事実の上に於いて、お参りをさせて頂くのに、やっぱしるしいお天気の日もあればね、雨風が強うて、というような時もありますけれどもね、眠たいけれども、朝参りをする、寒いけれどもと言うときもありますけれども、その辛抱こそ、とこうおっしゃるね、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃとね、そういう身に徳を受ける修行をさしてもろうて、広がりに広がるおかげを受けていくということ。
 私今日”神を念ずるところに神あり”と頂いたんです。神を念ずる所に神あり、本当言うたら、なら、念じようが念じまいが神様はいつも私共の上にいわゆる御守護をたて給うておるのであります。神様の御恩恵の中にありますね。
 けれどもやはりなら、人間総氏子とこれは日本人だけの事ではない。金光様の御信心を頂いている者だけではないね。皆天地金乃神の氏子なのだけれども、金光大神の信心をさして頂く者の上の事をとりわけ、信者氏子とお呼びになっておられますね。ただ、氏子とおっしゃって・・・信者氏子と仰せられるねえ。
 ですから、神様が一様におかげは下さってあるけれども、受けものが悪ければおかげがもるぞと仰せられるようにですね、私共ただ、信心しておるというだけではなくて、いつも心に念じるところに、言うなら神様の働きがこう頂けれるね、お取次を頂いてお願いをする、おかげを受けるね、そういうおかげから、身に徳を受けて、受けるおかげね。
 そこに言うならばその辛抱こそがとおっしゃるから辛抱がでけないようなところでも辛抱さして頂く。言うならば成り行きを尊ぶとか、黙って治めるとかということの中には必ずですね、やはり辛抱しなければならない時があるね。その辛抱こそが身に徳を受ける修行とおっしゃる。
 昨日長男の嫁がお届けをしておりましたが、一昨日恵城が今、小学校2年生です。担当の先生が尋ねてみえられて、それで、ま、家庭訪問でしょ。それから恵城の話が出まして、あのう、「あんたん所ではあのう、金光様ちはどげな話をしなさるの」ち言うちから先生が私が聞きましたら「それは天の心、地の心だよ」ち言うたげな。「ぼくの名前は恵城と言うが、恵城といやあ、土遍に成と書いてあって、恵まれると書いてある。だからぼくはいつも土の心で勉強する」という意味の事をいうた。何かそれが心のかかって、こちらの先生のお話を頂きたいと思う。
 八女からみえておられる先生だそうですね。それであちらで八女・・何とか言うお茶やさんが合楽にお参りしたことがあるという人が、大橋ならば合楽教会があります。一辺そこの話を聞いてなさい。そりゃ本当に素晴らしいと言うことを聞いておったというのです。それがたまたまここの言うなら、子供を受け持つことになって、受け持つうち先生がま、いわゆる冗談のようにして聞かれたじゃないでしょうか。
 それは天の心、地の心ち言うたち。そして自分の名前のぼくはあの土の心で、ま、言うならば辛抱するという意味の事を。ところが実際にその恵城がね、やっぱり今度何ですか、昔の言うなら級長ですかね、それに選ばれてま、言うことする事が違う。ということを話されて、それでその一辺とおり回って、夕方からもう一辺改めてお話を聞きたいと云うて、ま、若先生からゆっくりお話を聞いて帰られたと言うことでございますけれどもね。
 なそうと思えば、いうならば、子供でも出来るのです。辛抱は教えを頂きますとね、その辛抱が身に徳を受ける修行なんですね。これはも、先だっての話ですけれども、今日は友達とま、いざこざがあってね、ま、いうならけんかしたような感じだったけれどもぼくは、土の心で辛抱したよと云うて帰って来たと言うのですね。
 子供でもなそうと思えばなせれる修行なんです。御道の信心はただ、参って来てお願いをした。おかげを頂いた。ま、確かにそういうおかげからま、みんな入って来るわけですけれども、そういうおかげではなくて、言うなら68節のおかげを頂いてもらいたい。
 まず六と云う徳を受けてもらいたい、そしてそこから今度はも、広がりに広がる、云うならば、神様と念ずればそこに神あり、その神様が下さるおかげを受けとめるのはお徳である。念ずるのは誰でもある、念ずればそこに神様の働きが神がそこにあるですから、働きを下さるのだけれども、それを受けとめる心が日頃の信心辛抱の徳による事だと私思うのですね。
 例えば柏手も無理に大きな音をさせる事はいらん。有り難そうに般若心経やら、又は大祓をあげてもね、心に真がなかったら嘘を言うも同然じゃと。私はここをここんところをその真がないのは、神に嘘を言うも同然じゃということはね、実際はお徳を受けなければ神様への本当の祈念と云うのは出来ないんだと。おかげが頂けるような、云うなら祈った事がおかげになって、現れて来るような、云うなら祈ったことがおかげになって現れて来るようなおかげにはです。いわゆる真がなければというのはお徳がなければというふうに思います。
 そこには大きな声も入らなければ、わざわざ節を付けたり大きな音をさして柏手を打つ必要もないね。神様金光様と、こう祈るところに神様があり、その神様がも、じかにおかげの取引が出来るような信心とは真である。真とは私は今日は御神徳である。その御神徳はその辛抱こそ常日頃の信心ということにある。
 しかもここは辛抱しにくいところを辛抱する事が云うならば天地の道理にあうのであり土の心であるという修行をね、お互いさせて頂いて、辛抱のでけんところを辛抱さして頂く。それが身に徳を受ける修行と仰せられるから、その云うならみやすうね、その辺のところをも、その気になって行ずる事だと思う。
 まあだ、小学二年生の子供がですね、云うならば辛抱のでけんところを辛抱したよ、土の心の辛抱したよとその気になれば出来るようにね、お互いもそういう辛抱を続けて信心辛抱の徳を受けて初めて頂くおかげが、云うなら神様が信心しておかげ受けてくれよとおっしゃるおかげは、そういうおかげじゃないなかろうかとねときどき参ってくる、困った時に頼む、それがやっぱりおかげになる、やっぱ神様ばいと思わずにおれない。
 昨日光幸君じゃないけれども、おかげと思わずにおれないような、おかげを、しかも次々と頂きました。で、今日は、お礼参拝をさして頂いたという信心から、まず入らせて頂いたらまず、そういう信心がいつまでもいつまでも続いたら今日の御理解にはならないね。ただお取次を頂いて、お願いをしておかげを頂いたという信心では。
 そこからです、云うなら信心辛抱がいると云うことなんです。で、その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと、その徳を受けていわゆる68節のおかげ、徳を受ける、広がりに広がる。自分が念ずるところを神様の働きがも、そこに起こってくるというか、始まるような、云うなら、それは真がなければとおっしゃる。 その真と言うのは、私は今日はお徳だと、こう思う。お徳がなければというふうに思うですね。そこに念ずるところ、神様とのもその場で特別、いうなら直接取引が出来るようなね、おかげを頂きたいと思いますね。
 その辛抱こそ徳を受ける。その徳を受けてそのあとのおかげが私は六十八節だと思う。お取次を頂いて、お願いをする。はあ、神様のおかげと思わずにおられない。素人でもそう思えれる、ずにおれない、そういうおかげでね、終始する人が多いんです。
 一生信心しとるというてもです、お取り次ぎいただいてお願いして頂いたら、こげなおかげを頂いた、こういう奇跡的なおかげも頂いたという体験を積んでもね、それは大したことじゃないです。おかげを積むのじゃなくて、徳を積んでいくという信心は、その辛抱こそなのです。そこにはなら、辛抱の出来る事を辛抱するのは誰でもする、でけんところを辛抱するのが辛抱じゃとおっしゃるようにね。その辛抱こそ、確かに身に徳を受ける修行ですからね、身に徳を受けて、いうならば、頂けるおかげ、そういう稽古に本気にならなければならないね。
 なら私の孫の話をしましたが、その気になればね、先生に同道と天の心、という話せる。しかもそこには体験があるね。ま、いうなら先生の心を動かしたね。だから一辺天の心、土の心を聞きたいと。これからちょいちょい寄せていただくからということだった、そうでございますけれどもね、やっぱり自分の実験して実証していく信心、そこに辛抱が受けられると思います。      どうぞ